【社長ブログ】創業者のこと 想い出(2)2020.07.21
Web担当注:前回の続きです。
私が小学生のころ、母の用事で連れられて何度か飯田市松尾町の陽康の自宅に行った記憶は忘れられない。
玄関の入り口近くに大きな犬の檻があり、中にいる大型の猟犬が狂ったように吠え掛かる。大きな玄関を開けると、小上がりの畳の上には大きな虎の毛皮がこちら向きで敷かれている。それを踏まないように気を付けて中に上がり、床の間を背にした陽康の前に出たときには、母親が緊張して挨拶する指先までピンと伸びていたものだ。
当時は、一宿一飯を頼る流れのやくざ崩れや、流れ者の職人が仁義を切って訪ねてくる時代であり、受ける側もそのくらいの迫力が必要だったのだろう。
ただ、陽康は怖かったが子どもには優しくて、行くたびに「小使いだ」と言って500円入りのポチ袋をそっと渡されたものだ。
ラーメン一杯が50円位、10円で飴玉10個買えた当時であるから500円は子供には大金で、いまだに陽康に対して良い記憶だけが忘れられないため、私も小さい子どもにはたまに小遣いを渡して人気取りをしている。
さて、当社創業者の三朗のことだが、三朗は大正9年6月1日生まれ。旧制飯田中学から名古屋工業高等学校(現 名工大)を経て、陸軍士官学校(陸士)を卒業して従軍し、終戦後に家業の木下建設(株)に入社した。当時「陸士」といえば東京大学より入学が難しいと言われた難関校であったため、三朗が昭和26年(1951年)のまだ戦争の記憶が濃く漂っている時代に、木下建設(株)臼田出張所長として臼田町に赴任した際には、31歳という若さにもかかわらず、地元の名士たちに一目置かれた存在として迎え入れられたことだろう。
臼田出張所の前でオートバイに乗る木下三朗
実際、井出一太郎代議士の後援会「一樹会」の後援会長はじめ、様々な団体の要職を歴任している。
50代前後には、南佐久郡選挙区から県議会議員に出馬するよう周囲に進められて、本人も意欲を燃やしていたようだが、残念なことに49歳の時にガンを発症してしまい、闘病生活を続けたのち57歳で逝去した。あの当時の男達の例に漏れず、ヘビースモーカーだったことが夢を果たせなかった一因ではなかったか。
創業者や多くの社員の精進努力により、また取引先、発注関係者、地元住民に支えられて成長してきた結果、当社はいま新社屋を下小田切の地に建設中である。
「企業の寿命は30年」という説がある。だから私が社長になった平成4年、設立41周年第24期を「第2の創業」と考えてきた。
そして、設立70周年、独立してから第54期となる今年末、新社屋での稼働開始日をもって当社の「第3の創業」と考えている。
創業にあたり、社員全員が初心を忘れずに、また「一から始める」という斬新な思考、挑戦をしていきたい。