【社長ブログ】創業者のこと 想い出 (1)2020.07.09
当社の前身は木下建設(株)佐久支店であり、昭和43年(1968年)12月27日に独立して木下建工株式会社となった。
木下建設(株)佐久支店は、飯田市本社の木下建設が、昭和24年(1949年)のキティ台風により大きく被災した佐久地区に、長野県土木部から復興工事応援依頼を受け、昭和26年(1951年)11月26日に臼田出張所を設立して始まったものである。そして、千曲川本流及び支流の護岸復旧工事に携わりながらこの地に定着して今に至っている。設立されてから今年末で69年、独立から創立52年ということになる。
当時の災害復旧工事(南佐久郡小海町)※クリックで拡大します。
当時の災害復旧工事の記録を見ると、護岸工事に携わる作業員は1現場で毎日200人を超え、飯場(簡易宿泊施設)を設けて大型バスやトラックの荷台に乗せて現場まで送迎したとある。当時を知る高齢の元社員に聞くと、「毎朝工事が始まると2~3人がかりで作業員の出面(でづら=出勤簿のこと)をつけて現場を回り、それで1日が終わった。」とのこと。終戦後の大工事だった。
当時、当社により復旧された千曲川の臼田~宿岩、大月川や杣添川の玉石積みの護岸や治山堰堤などは現存しているものも多い。工事に使うコンクリートは生コンプラントなどまだ無い時代で、セメントは役所からの支給品で、貨物列車で小海線臼田駅に着いたものを現場まで搬入し、骨材と混ぜて手や簡易ミキサーで練って型枠に流し込んだから、随分と人手が掛かったものだ。
飯田の木下建設から佐久の木下建工に至る歴史を語ると、木下建設は大正2年7月2日飯田仲の町に「木下組」として初代 木下陽康により創立された。今年7月で創立107年である。初代木下陽康の生い立ち他経歴を語ると長大になるが、詳しくは「木下建設(株)創立80年記念誌」及び「同100周年記念誌」に纏められている。大正、昭和時代の建設現場の様子が書かれており、なかなか面白い読み物だ。
陽康の長男が木下建設の社長から長野県議会議員を4期務めた一人(かずと)で、三男が佐久出張所長から営業所長を経て初代木下建工社長になった三朗(さぶろう)である。三朗が木下建設 伊那営業所長の時に先に述べたように応援要請があり佐久出張所を設立し、初代所長として妻の孝(こう)とともに赴任した。昭和47年12月に独立して昭和53年1月まで社長を務め、義弟の今牧君雄に社長を譲ったのち、同年3月肺ガンのために57歳で逝去した。
佐久出張所開設当時の社員(前列右が木下三朗)
ちなみに、陽康は妻陽子の祖父であり、私の母の叔父である。一人は妻の叔父で、私の「はとこ」にあたる。昭和53年1月の我々の挙式には仲人を務めていただいた。
陽康は丸刈り頭、短躯ではあるが骨太のがっしりした体躯で、勝新太郎の「兵隊やくざ」顔負けの風貌。もともと大正期の建設請負業者はみな侠客であり、その中で頭角を現した男だから、大きなギョロ目で睨まれると大変迫力があった。
佐久を訪れた木下陽康と孫の陽子
陽康が、飯田から佐久出張所に見回りに来ると連絡があった際には、三朗夫婦はじめ社員も緊張して、出張所や現場の整理整頓、清掃、草むしりを徹底して来所に備えたそうだ。
何しろ、事務所に入ると障子の桟を指でこすって、埃が付くと怒鳴り上げたという逸話が残っているほどである。
つづく。